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2007年3 月24日 (土)

コメント

児島市民

日の丸をどう捉えているかも問われる時代になった。少なくとも戦時中の神道もって洗脳された愛国精神や天皇崇拝の精神は時代が検証して誰もが疑問を抱いて従わないだろうし、その当事、正常で平和な精神の持ち主は反思想主義者として投獄されあるいは殺された、日本共産党の生まれもこうした国家権力の弾圧の歴史の中からできた精神政党であり、今も尚その反骨魂が血脈されている唯一の政党ともいえる。

軍事徴兵制度の無い国はつい愛国精神も廃るというが、米国の志願徴兵の低所得の失業者や黒人から形成されているだけで裏づけの手当て支給がなければ成立しない話だ。教育改革の論点ではこうした愛国心が多角的に論じられながらどこかで思想を縛ることで国家や文部教育に傾注させようと働きかけている向きは否めないが、核放棄無軍備の恒久平和主義を提唱する憲法を今更、いじってアレンジしても時既に遅しともいえる。国際的貿易黒字国でありながら人種そのものが国際的ではない島国教育を一貫してきたし、肝心の天皇皇室もお飾りで時代の上で違和感も出ている。日の丸儀式もそろそろ新しい趣向に変えても良い時代になっているが、何に変えたら良いか知れないから混乱している時期かも知れない。

日本人がこれから国際視点で、人種を誇るにはもっと今の学校教育の方針だけではだめだが、かといって文部省をいきなり潰すわけにもいかないだろう。
しかしながら、学校というところは常に社会的な政治や倫理を教えきれないところだなあと痛感する。教員の質もさることながら、教科書限定の授業も原因しているようだ。若者に正しい意見を教えるところはどこかの宗教団体くらいしかないのだろうか。これだけ人心から荒廃し、政治が乱れ、景気は悪化し、正常な人が自殺している。学校というところは人生の基礎教えるところであっても良いと思うが、それは国歌だ国旗がどうことという以前の問題かも知れない。

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